講演 「戦後かぶき三国志」 松井今朝子  【1】

2010・7・26
よみうりホール
「戦後かぶき三国志」
歌舞伎興行は昭和時代に決定。
「昭和歌かぶき三国志」と名付けたのは、昭和30~40年代、国立劇場・松竹・東宝が三国志のようだったから。
それ以前はどうだったか?

(江戸時代)
中村座・市村座・森田座の三座が隆盛を誇る。

(明治時代)

○ 森田座は江戸時代、最弱小だったが新富座になって隆盛を誇る。
明治22年歌舞伎座ができる。これ以後、歌舞伎という名称が普通になる。
それ以前は単に「芝居」と呼ばれていた。
また、「歌舞妓」の表記から「歌舞伎」の表記になったのも歌舞伎座誕生以後。
歌舞伎座は毎日新聞の(?)さんとちばかつごろうさん(文字がわかりません)が
海外に行くと立派な劇場がある。日本にもぜひということで作られた劇場。
だから、初代の歌舞伎座は洋風建築だった。
歌舞伎座という名称ではなく、「改良座」というのがつけられる予定だった。

○ 明治座(明治26年)市川左段二がメイン役者。ヨーロッパに渡り日本初のイプセン上演。
新劇の草分け。
歌舞伎十八番選定。鶴屋南北の発掘。

歌舞伎はずっと続いているわけではない。すたれたり創造したり、断絶したり復活したり。

○ 帝国劇場(明治44年)
渋沢栄一。(伊藤博文がバックについていたが、国立劇場ではない)
国立劇場を建てたいという願いはあった。
有名な役者を引き抜き帝劇で歌舞伎をやっていた。

○ 市村座
中村吉衛門・尾上菊五郎など

(松竹の進出)
そこへ、白井松次郎・大谷竹二郎の双子の兄弟が関西から乗り込んでくる。
松竹(まつたけ)の芝居と呼ばれていた。
明治22年 新富座
大正1年  明治座
大正3年  歌舞伎座(賃貸→合併)
昭和5年  帝劇
昭和7年  市村座焼失
松竹の独占

(前進座)
昭和6年 前進座旗揚げ
合議制でやっていく。大変珍しい形。
左派的であった。
左団二からの流れ。

(東宝)
昭和7年 東宝という会社ができる。
株式会社 東京宝塚劇場
阪急という会社の創始者小林一三の考え。鉄道が乗客を作る。
電車に乗る目的を作るために宝塚温泉に宝塚少女歌劇(大正3年)を作った。
そこで、東京に宝塚少女歌劇を上演する劇場を造る。
昭和9年  東京宝塚劇場(3000名の劇場)
昭和10年 有楽座(1600名)
この有楽座で公演するのに、第1次東宝劇団結成。
市村じゅかい・市川雷蔵・坂東三津五郎(ふぐ三津さん)・17代目勘三郎・11代目団十郎に日活映画の夏川静江という女優など。
どんな演目を上演したかというと
「ポーギーとベス」の原作の「ポーギー」をやったりした。
この劇団は3年でポシャル。

(戦後の歌舞伎)
GHQのバワーズのおかげで復活。

昭和20~24年名優の死が続く。

歌舞伎ブームが起こる。

(松竹の戦略)
松竹は「襲名」というアイテムを商品化することに成功した。
戦後80回もやっている。

昭和24年8代目幸四郎の時に全員が口上をした。
当時は珍しかった。
江戸時代は「襲名」はおおげさじゃなかった。
それを売り物にした。
昭和25年勘三郎
イベント大当たり。名前のありがたみが。

「襲名」は「家」制度があった時は商品にならなかったが、戦後「家」が崩壊したからありがたみが増した。
一般人が梨園に家が続くという幻想を見ている。


海老様ブーム。
昭和37年市川団十郎襲名。
プログラムの真ん中に「襲名」と書かれた。
いつもの3倍半の広告費。
経費一億七千万
売り上げ二億四千万円
今の感覚なら二十四億円。ものすごい経済効果。

江戸時代は「一世一代」のほうが重要。
(引退興行)

芸術院会員・人間国宝など役者の社会的地位を向上させた。
役者の格をあげて、興行の闇から切り離す。

襲名はその役者にスポットライトが当たるので、役者ぶりが大きくなる。


<続く>

松井今朝子ホームページ

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック